会津の上杉家へ仕官した前田慶次。

1000石の知行を与えられ、

組外御扶持方(くみほかごふちかた)の組頭となった。

組外御扶持方は浪人達のチームで

各地から集まった荒くれ者達をまとめなければならない。

しかも山上道及、上泉主水、車丹波、岡左内…等など

名だたる豪傑が集まっていた。

これらの猛者共をまとめるには慶次しかいなかった。

豊臣秀吉が病没し、

ここぞとばかりに徳川家康が

天下をとろうと動き出す。

それに対し、上杉家は反感をあらわにし、

かの有名な「直江状」を徳川家康に送りつけた。

※直江状についてはこちらに解りやすいサイトを発見しました。

⇒ http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50786862.html

いよいよ戦争になる!

といった時のこと。

穀蔵院ひょっと斎(前田慶次)も、

ひときわ目立った軍装で現れるのである。

上杉将士書上』によると、

この後はじまる最上との戦では、

黒具足猩々緋の陣羽織金の瓢箪の房がついた、

 金のいらたかの数珠をかけて、

 銀の山伏頭巾をかぶり、手には十文字の槍を持っていた」と

この時の穀蔵院ひょっと斎(前田慶次)の

傾いた軍装を詳細に記載されている。

乗り換えの黒馬にも金の山伏頭巾をかぶらせて

さらには鉄砲2丁と、非常食を入れた袋を

鞍壺に備えておくといった、実戦に備えた用意も周到であった。

 この奇抜な軍装だけでも十分目を引くのだが、

さらに慶次は、

「大ふへんもの」と書かれた旗指し物をしていた。

上杉武士といえば、軍神と呼ばれた

上杉謙信の時代から、

武辺」で名高い家柄である。

 

武辺とは武勇のことであり、

武辺者とは、向かうところ敵なし。それぐらい強いぞという意味である。

前田慶次郎利益
そこに来て前田慶次の旗指し物には

大武辺者である。

(この時代は濁点は書かれない事が多かった)

上杉家に仕官した頃の慶次は

50代後半から60代だったのだが、

新入りであることには変わりない。

新入りにやりたい放題やられては、

当然、猛者揃いの上杉家中で

特に腕に覚えのある者が黙っているはずがない。

「前田殿が並みの者ではないことは認めるが、

 武辺に名高い上杉家中で、名の知れた我らを前に、

 大武辺者とはいかがなものか」

すると、待ってましたとばかりに慶次がこう返す。

「自分は故郷を離れ、浪人暮らしが長く、

 妻もいなけりゃ金もない。何かと不便だ。

 だから、大不便者なのだ。

 貴殿らは仮名の清濁を勘違いなされておるようだ」

これには上杉の武辺者たちも返す言葉がなかった。

ちなみに前田慶次は晩年、

「龍砕軒不便斎(りゅうさいけんふべんさい)」という

号も名乗った。

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