慶長5年(1600年)9月末、
最上領、長谷堂城攻めに苦戦している直江兼続のもとに
関ヶ原で西軍が敗れたという報告が入った。
「そんな馬鹿な……」
長期戦にもつれ込むと、誰もが予想していた天下分け目の大戦
関ヶ原がわずか1日で決してしまったのである。
もたもたしていると徳川家康が返す刀で
攻めこんでくる恐れがあり、
東軍勝利の報を聞きつけた最上、伊達の兵の士気は上がり、
勢いに乗って猛攻を仕掛けてくるであろうことは予想がつく。
ならば一刻も早く退却せねばと、
直江率いる上杉軍は、すぐさま撤退を始めた。
敵陣深くまで攻め込んでいる軍勢の撤退は難しく、
数で上回る上杉軍だったが、この数が撤退をさらに困難にさせた。
形成が逆転した最上勢は、
大将・最上義光みずから先陣を切ってきた!
■ 軍の退却時、捨て駒の役割をするのが、殿(しんがり)
殿(しんがり)。
それは軍の退却時に一番重要な役目を担う。
大将や、その部隊を逃がすために、
敵の足止めをするストッパーの役割で、ほぼ無傷で帰ること能わない。
というより、高い確率で全滅する。
自分が犠牲になることで他の仲間を助けるという役目なのだ。
暴走族で言えば、警察がきたら自分がポリを引きつけて
その間に仲間を逃すという、ケツ持ちという役割があるが、
それに似ている。
普通は下っ端の仕事なのだが、「お前らは先に行け」と
総長自らが買って出るというシブイのもいる。
一番リスクがあることを自ら買って出る。
そこに男の美学があるというのは、
武士道の精神から来ているのではあるまいか。
……話を戻します。
殿軍を務めるということは、戦の中で一番難しいということは
言うまでもない。
だからショボイ奴では殿は務まらない。
味方を無事に退却させるため、
総大将・直江兼続が殿軍の指揮をとった!
そこに上杉家中でも猛将として名の知られる、水原親憲(すいばらちかのり)、
天下御免の傾奇者、穀蔵院ひょっと斎(前田慶次)、をはじめとする
腕に覚えのある猛者どもが殿に志願する。
翌早朝、陣屋に火を放ち、撤退を開始する。
全体では2万をこす大軍であったが、
本体を先に逃した殿軍はわずかの兵で戦うことになる。
形勢逆転した最上勢は、家臣の反対を振りきって
大将・最上義光自らが先頭に立つ。
大将より先に行かねばと、家臣もこれに続く!
直江は伏兵として水原を山道に忍ばせており、
水原隊の鉄砲が一斉に火を吹く!
この時最上義光の兜の前立に鉄砲が直撃し
その兜は今も弾痕が残ったまま保存されている。
戦っては引き、戦っては引きを繰り返し
敵を翻弄するも、数と勢いに押され次第に乱戦になる。
「もはやこれまでか…。敵の手にかかるより、自ら腹を切るか」
直江兼続がそうポツリと呟いた時、
「大将がそんな弱気でどうするんじゃ!ここはワシに任せろ!」
と、只一人、敵の中へと突っ込んでいった。
「前田慶次、ここにあり」と、朱槍をふりかざして
鬼神のごとく敵をなぎ倒していった。
背には「大ふへんもの」の旗印。
こうなると黙っていられないのが、朱槍を許された四人の猛者。
水野藤兵衛(みずのとうべえ)、藤田森右衛門(ふじたもりえもん)、
韮塚理右衛門(にらずかりえもん)、宇佐美弥五右エ門(うさみやごえもん)
の四人が続いた。
前田慶次よりも戦働きが劣るようであれば
朱槍を持つ資格が無いと言われているだけに、
皆朱の槍の意地と面子を掛けての突撃である。
たった5人で何千という大軍の進撃を止めた。
命知らずな武辺者に最上軍はたじろいた。
5本の朱槍が火を吹いたのである。
朱槍を持つことを認められる
ということ自体がめったに無いことなのに
一度に5本の朱槍が活躍したこの戦いは、
のちに「稀代の珍事」として語り草となる。
その間に体制を整えた上杉勢は
水原鉄砲隊が集中砲火を浴びせかけ
仕上げに直江の鉄砲隊が一斉射撃でたたみかける。
直江兼続 鉄砲隊
なんとか最上を振り払い、
領地へと辿り着いたのである。
「北越軍談」によると、わずか6キロの距離の間で、
28回の戦闘が10時間もの間行われていたという、
凄まじいものであったとされている。
慶次がいなければ殿軍は壊滅していたかもしれない…。
この激烈な撤退戦は
「最上退き口の功名」と、のちのちまで称えられ、
敵将、最上義光も
「直江は古今無双の強者なり」と完敗を認め、
徳川家康も天晴な武功と賞賛したという。