『鉄拳制裁』、『暴力反対』
この相反する2つの単語だが、
あなたはどちらに共感できるだろう?
私の答えは『鉄拳制裁』。
もちろん意味もなく殴る、
ただの暴力はいけないことだが、
愛のムチであったり、
正義のためのものであるならば
時に必要であると思う。
今の世の中は、
「弱いもの勝ち」の世界で
結果至上主義。
そこに至ったプロセスは全く関係が無い。
「被害者の皮を被った鬼畜」
この言葉がピッタリと言える出来事が
数多くある。
地下に潜り、より陰湿に、より陰惨に、
人間関係がなってきていると思う。
これではいじめが無くなるわけがない。
イジメとは陰湿なモノ。
世の中陰湿な性質の
人間ばかりになれば、
イジメが増えるに決まっている。
愛のムチも、ただの暴力も、
「暴力」という言葉で一括りにされているが、
私は全て同じものではないと思う。
例えば、私の小学校の時の話だ。
6年生の時の担任の
「春さん」はガキ大将だった私を
よく気にかけてくれていた。
私もそんな先生が好きだった。
しょっちゅう会議室に呼び出され、
説教をされていた私。
ある時、何が原因かは忘れてしまったが、
放課後に春さんに呼び出された。
「ちょっと来い!」
というなり腹にパンチを入れられた。
その時のパンチはかなり痛かった。
パンチをもらった体が痛いわけではない。
心が痛いのだ。
春さんの拳からは、哀しみがあふれていた。
殴りたくて殴ってるわけじゃない。
多分殴られた俺より、殴った春さんの方が
何倍も痛いんだろう…。
と、その一発の拳から、子供ながらに感じ取れた。
ついでにもう1つ言っておくと、
中学に上がってすぐのことだった。
親睦を深めるという意味で、
入学して早々に、
学年旅行があった。
そこで事件は起きた。
夜中部屋を抜け出して
女の子の部屋に遊びに行っていた私とツレが、
自分の部屋に戻ると
学年の先生たち6、7人に囲まれて
クラスメートが全員正座させられて
ボコボコにされていたのである。
「ん?」と思った私とツレは、
先生たちの後ろで皆を笑かそうとしていたのだが、
そんな空気ではない。
そのうちの一人が
「バレんように部屋に戻った方がええで!」
という合図を送ってきたのだが、
なんか皆やられてるのに自分だけが
こそこそと安全な場所へ行くのが
卑怯な気がして、
ど真ん中に突っ込んでやった。
「なんやねん、コレは?」と。
すると、入学当初から私に目をつけていた
一人の先公が、私の髪の毛を掴んで
引っ張っていき、
いきなり殴る蹴るのサンドバック状態にしてくれた。
座り込んでいる私の顔面を
ずーっと蹴りつづけてくれたっけ…。
まあ要するに、
先公達は生徒に舐められないように
入学して早々にシメておこうという魂胆である。
中学生といっても、つい最近入学したばかりで
まだ小学生と変わらない。
そんな時に恐怖を植え付けておこう
という作戦だったのだ。
この時のパンチや蹴りは
春さんの時とは異質のものだということは
あなたにも解っていただけると思う。
クラスメートの中には耳を掴んで体が浮くまで
ひっぱりあげられて
耳がちぎれた奴もいた。
「あん時な~、…」
と、その話を聞かされた私は
必ず仇をとってやろうと決心した。
子供を寄ってたかってドツキまわす大人
VS
小学校を卒業したばかりの子供の戦いが始まる瞬間だった。
その後、俺を可愛がってくれた“アイツ”から
血祭りにあげていったのは
言うまでもない。
(ちゃんと一対一、もしくは先生5、6人VS私一人でですよ)
最近は、
生徒に手を出すと体罰だ、なんだ、って
騒ぎ立てるようだが
これは絶対におかしい。
先の二つの例を見ていただければ解るように、
前者は、まだ精神的に未熟な人間が
成長していくのに必要なことで、
後者は、恨みや怒りのの連鎖を生むだけの、
全くもって必要のないことだ。
この二つの異質のものを、
「暴力」とか、「体罰」という言葉で
一括りにしてしまうと、
先生が委縮してしまい、
陰湿な生徒はつけ上がる。
まさに『弱いもの勝ち』の構図が出来上がる。
物事には必ず、そこに至るまでのプロセスがある。
つまり原因があって結果があるのだから
原因の部分に重きをおくべきだと
私は考える。
暴力と言われないように
陰でネチネチやったり言葉の暴力をやる。
それならいっそ殴り合ってスッキリしたらいい。
その方が気持ちいい。
結果だけではなく、原因を考える。
その上でどちらに非があるのか判断する。
そんなフェアな社会にしたいと
本気で思う。
二代目 穀蔵院ひょっと斎
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