前田慶次郎利益 (まえだ けいじろう とします)
武芸十八般に通じており、
戦をさせれば天下無双の剛の者。
教養も高く、公家や文人との交流から
和漢古今の書の親しみ、
源氏物語・伊勢物語にも精通していたという。
連歌は当時の第一人者である、
里村紹巴(さとむらじょうは)に学び、
茶道は利休七哲の一人である、
古田織部に皆伝を受けたともいわれる。
文武両道の戦国武将である。
加賀藩に残された資料によると、
1533年生、1605年に没、
米沢に残された資料によると
1542年生、1612年没となっている。
また名前に関しても、
利益、利太、利貞、利大、利治、など色々でてくる。
当時は漢字は当て字のように使われることもあった。
実父は織田四天王のひとり、
滝川一益の、いとこ滝川益氏であるというが諸説ある。
いずれにせよ、滝川一族の出であるのは間違いない。
その後、加賀百万国の礎を築いた、前田利家の兄、
前田利久の養子となる。
前田家の当主であった利久に跡継ぎの子がなく、
慶次を養子として迎えたのだ。
順当に行けば前田家当主となっていたであろう慶次。
ところが、利久は武辺に乏しく、武者道御無沙汰という理由から
信長が前田家の家督は、弟の利家が継ぐように命じたのである。
永禄12年(1569年)のことだった。
本来であれば前田家の家督を継ぎ、
利久の居城、荒子城主として君臨するはずであった 前田慶次 は、ここから人生が一変するのであった。
前田利家が家督を継ぎ、
利久、慶次の親子は荒子城を去った。
その後の14年間は詳細不明となっているが、
羽柴(豊臣)秀吉が天下を統一し、
利家が金沢城主となった頃に
前田家に帰参している。
(利家らと共に末森城の戦いや、小田原城攻めにも参戦している)
負い目を感じている利家は、
前田慶次、利久親子を優遇し、
前田慶次も、戦の際は利家に尽力した。
そして慶次は、阿尾(あお)城代に返り咲くことになるのだが、
この、前田家に帰参し、利家に仕える頃から、
慶次の傾きっぷりがMAXとなる!
◆ 前田慶次かぶき逸話
4.上杉家へ仕官!拙者、穀蔵院ひょっと斎にて候
5.大ふへんもの騒動