前田慶次、利久父子を追い出す形となった
前田利家は、元来律儀な性格ゆえ、
罪悪感にさいなまれていた。
そこで、両者と交流のあるもう一人の兄、前田安勝に仲介を頼み
なんとか和解する。
そして、長兄、利久には7000石、
甥である慶次には5000石の知行を与えて
一門衆として迎えた。
戦の経験豊富な慶次は
利家の軍の戦力強化に大いに役だった。
末森城の戦いでは朱槍を振るって
侍大将として活躍。
利久も金沢城代として本城を守った。
この後も、九州征伐、小田原征伐、奥州仕置などの戦に従軍する。
天正15年(1587年)、利久が金沢城で没する。
本来なら前田家当主、利家が葬儀を取り仕切る立場であったが、
九州島津討伐の遠征に出ている秀吉に代わり、
京都を預かっていたため、
利久の葬儀は慶次が取り仕切った。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は、
小田原の北条氏を討伐する。
前田利家は北国軍総大将として小田原攻めに参戦した。
前田慶次も、利家の部隊で従軍。
小田原から帰還したのち、慶次は前田家を出奔する。
養父である前田利久が亡くなったことで、
前田家に義理立てする必要がなくなったからか、
利家を憎んでいたからか、
はたまた利家はワシの主君としての器ではないわ!
という思いからなのか…、
突如、前田家を飛び出すのである。
私が思うには、
年老いた養父、利久のためを思うと
前田家にいることで安泰であると。
しかし、利久亡き今、利家の下で仕えてられるか!
俺はお前ごときに使いこなせるようなタマじゃねえと。
前田家にいる限り、どこまでいっても利家の配下。
しかも前田家の名誉を気にして日々生きないといけない。
この人についていこうってーのならいざ知らず、
利家のために、カタッ苦しい決まり事で、
自由を制限されるなんて御免こうむる。
元来傾奇者とは、組織を嫌い、群れるのを嫌い、
束縛を嫌うものである。
よっしゃ、5000石なんて捨てたらあ!出奔じゃい!
っていう感じではなかろうか?
前田家を出奔する時、慶次がしでかした、こんな逸話がある。
■ 命がけの悪ふざけ
戦国時代というのは、実は小氷河期であったという資料がある。
とにかく寒いのだ。
そんな小氷河期の北陸地方、
雪が降り積もる冬のある日のことだった。
前田慶次郎利益、彼は特に寒い日を選んで
前田家当主、利家を茶の湯に招いた。
「叔父上にはご心配をかけ通しで申し訳ございません。
これからは真人間になるよう心を入れ替えます。
ついては粗茶を一服差し上げたく候…」
利家は、常日頃から、世を軽んじて人を小馬鹿にする癖がある慶次を
口やかましく言って聞かせていたのだ。
「彼奴(きゃつ)もとうとう心を入れ替える気になったか」
もとより文武に優れ人間も馬鹿ではないのだから、
もう少し真面目にさえなってくれればこの上なく頼もしい漢だと
喜んで慶次の屋敷に向かった。
「今日は、ことのほか寒うございます。叔父上、
茶会の前に風呂に入って温まってください。
丁度いい湯加減になっております」
「それは何よりの馳走じゃ!」
と利家は大喜びで風呂に飛び込んだ。
「ぎゃーーー!!」
なんと、湯船にはられていたのは、氷のごとく冷たい水だった。
「彼奴(きゃつ)を、ひっ捕らえい!!」
と叫んだが、時すでに遅し。
慶次は裏口につないでおいた駿馬、
『松風』に飛び乗り、
颯爽と金沢城下を脱出、そのまま出奔したのであった。
激怒した利家は、このままでは面目丸つぶれと、
家中から選りすぐりの刺客を選び、
慶次の命を狙わせたとも言われている。