前田家を出奔し、京の都で浪々の日々を送っていた頃
前田慶次は一人の盟友と出会う。
京都伏見にて上杉家の屋敷が建ち、
「愛」の前立で有名な、上杉家筆頭家老、
直江兼続も京都にいた。
前田慶次は妙心寺の南化和尚(なんげおしょう)と
深く親交するようになり足しげく通った。
直江兼続もまた、
南化和尚とは親交が深かったため、
和尚を通じて交流を深めていった。
直江兼続は、この寺に所蔵されていた
『古文真宝抄(こぶんしんぽうしょう)』を書き写すために
1ヶ月も通いつめているところだったという。
(※この時代はコピー機がないので書き写すしかなかった)
礼儀正しく実直な上杉の侍と、
派手な出で立ちのかぶき者。
一見すると、かなりミスマッチに見える組み合わせだが、
古典や和歌を愛する知識人であり、
義を重んじる、『義侠の士』という部分で惹かれ合ったのではなかろうか。
ちなみに兼続主催で
亀岡文殊堂(かめおかもんじゅどう)に
和歌や漢詩を奉納した際、慶次も参加している。
そして直江兼続を通じて、
前田慶次は上杉家へ仕官することとなる。
◆拙者、穀蔵院ひょっと斎
京都で自由気ままに、傾いた生活を送っていた慶次。
かぶきっぷりもさることながら、
勇猛ぶりから、その名が他藩にも広く知れ渡っていたので、
度々慶次のもとには特別待遇での仕官話が持ち上がっていた。
しかし慶次はこれを、ことごとく断った。
「自由じゃなくなる」ってことと、
「その大名では仕えるに足らぬ!」
この2つの理由からだろう。
「ワシが仕えるとしたら、義侠の士、
会津の上杉景勝ぐらいのものだ」
と。
京都で直江兼続と出会い、
深く交流するようになったことから
慶次は上杉家への仕官を申し出る。
「自由に務めさせてもらえれば、禄高は問わない。
それでよければ景勝公のもとで戦働きをさせてもらえんか」
と。
直江兼続はこの申し出を快諾した。
前田慶次は上杉景勝と謁見する際、
頭をツルツルに剃り上げ、
僧の格好で現れ、大根3本を手土産に、
「拙者、穀蔵院ひょっと斎にて候」
と、何とも人を食ったような号を名乗って傾いた。
これには2つの理由があって、
1つは前田家への気遣いから。
前田利家と、上杉景勝は反目であったと言われていた。
だから僧形(僧の姿)となって、あえて号を名乗った。
2つ目は、自分が見込んだ大将の器を試したということ。
現代で例えると、面接で社長に、
「君、名前は?」と聞かれた時に
「穀蔵院ひょっと斎です」
と言ったらどうなるか。想像に難しくないはずだ。
しかも前田慶次の場合は、戦国時代の戦国大名を相手にだ。
無礼打ちといって首をはねられる可能性もある。
そして、手土産として持ってきた
土大根を3本差し出してこう言った。
「拙者はこの土がついた大根のように、
姿形は見苦しいが、噛めば噛むほど味が出てまいります」
つまりは、見た目や振る舞いは異様だが、
義侠心や仕える気持ちは誰にも負けないという意味を
含んでいるのだろう。
これには、普段めったに表情を崩さない
(眉間には深いシワが刻まれているというぐらい)
上杉景勝が満面の笑みを浮かべたという。
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