新陰流の開祖で剣聖と呼ばれた、上泉信綱(かみいずみのぶつな)。
彼の孫で会津一刀流の開祖として名を馳せた、
上泉泰綱(やすつな)は、小田原征伐により
北条氏が没落した後浪人となり、
上杉家が徳川との一戦を想定して、
軍備拡大を図っていた時に上杉家へ仕官していた。
そして、北の関ヶ原、長谷堂城の戦いでは、
穀蔵院ひょっと斎(前田慶次)と同じく、直江兼続のもと
長谷堂城攻めに参戦していた。
ちなみに剣豪、宮本武蔵は関ヶ原に参戦しているといわれている。
長谷堂城は守りの堅い天然の要塞。
そこで総大将・直江兼続は、行く手を阻む池へと流れこむ
川の水を遮断する作戦に出た。
このままではイカンと、最上勢は城から打って出て
決死の猛攻撃を仕掛けてきた!
味方の危機に上泉泰綱は侍大将の身でありながら、
一人で敵のド真ん中へ突っ込もうとする!
上泉の組の、大高七右衛門(おおたかしちえもん)が
「侍大将たる御方が一騎駆けなど、なりませぬー!」と制するが
これを振り払い、上泉は突撃する。
こうなったら仕方ない、大将に続けと大高もこれに続いて突っ込む!
ところが、この大高以外の組下の者は、
怖じ気づいたか誰も後に続こうとしない。
これに見かねて駆けつけてきた豪傑がいた!
前田慶次である!
(穀蔵院ひょっと斎)
「大将が敵陣に乗り入れているというのに、
後に続かぬとは武士にあらず!!
いざかかられよ!」
それでも尻込みする上泉の組下。
業を煮やした穀蔵院ひょっと斎は自ら上泉の救援に向かった。
「主水殿(上泉泰綱)、助太刀いたす!」
剣の達人、上泉泰綱と、
戦場では鬼神の如き強さを見せる奇人、穀蔵院ひょっと斎(前田慶次)。
怒涛の勢いで敵を切り伏せていったが、
やはり多勢に無勢である。
そこに兼続からの退陣の伝令が届く。
しかし、上泉泰綱は、「心得ました」という言葉とは裏腹に
さらに敵陣深くまで突っ込んでいったのである。
「上泉主水(泰綱)という剛の者を討ち取りたい者はかかって来い!」
と名乗り、数十人を切り伏せるも、最後は
最上軍の金原加兵衛に討ち取られてしまった。
帰陣した穀蔵院ひょっと斎(前田慶次)は、怒りが収まらず、
上泉組衆に対し、
「大将主水(上泉泰綱)を捨て殺し、
お主らとは男の付き合いは今後一切出来ぬ。
侍と呼べるのは大高殿のみじゃ」
と激しく罵ったと伝えられている。