加賀百万石の礎を築いた前田利家


今回は、前田利家公に

注目したいと思います。


Maeda_Toshiie

 

前田利家は、14歳の時に


織田信長の小姓として仕えました。


この時の信長は、

イカレた格好に身を包み

“うつけ者”と呼ばれた

不良少年でした。


そんな信長に仕えた利家もまた、

傾いた出でだちの

不良少年でした。


とにかく喧嘩っぱやく、

性格はイケイケで

6m以上もある派手な造りの槍を振り回し、

利家が通ると

「又左衛門の槍が来たぞ!」

と誰もが道を空けたといいます。

19歳の時・・・その自慢の腕を試す時がやってきます。

信長と、その弟の織田信勝による

織田家の家督争い、稲生の戦いでは、

敵の小姓頭、宮井勘兵衛に

右目下を矢で射抜かれながらも

首を討ち取るという功績を上げる。

前田利家

浮野の戦いでも功積を挙げた利家は、


その槍さばきから

槍の又左と呼ばれました。


この後、赤母衣衆(信長直属精鋭部隊)の筆頭に抜擢されました。



ここまでは順調だった利家ですが、


22歳の時、事件は起こりました。



信長の異母弟の拾阿弥という茶坊主がおりました。

この茶坊主は信長に気に入られてるのをいいことに、

普段から信長配下の武将に対して横柄な態度をとっていました。


その茶坊主、拾阿弥が、

利家の刀の笄
(こうがい。鞘についてる飾りで、妻のまつからもらったもの)

を盗み、

利家を激怒させました。


利家は拾阿弥を成敗すると言って聞きません。

信長の取り成しで一時はこれが収まったのですが、


その後も拾阿弥は、

利家に対し度重なる侮辱を繰り返したため、

我慢の限界堪忍袋の緒が切れた利家は

信長の面前で拾阿弥を斬殺し、織田家を出奔してします。


これに激怒した信長は

利家を死刑にするといったのですが、

柴田勝家や、森可成らの信長への取り成しで

出資停止処分(織田家クビ)に減刑されたのでした。


2年間の浪人暮らしをすることになるのですが

後年、この時期のことを語る際は必ず



「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も
 声をかけてくれない。

 だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ、
 真の友人(信用できる人物)だ!」



と言っています。


クビになった一年後、

桶狭間の戦いが起こります。


名誉挽回の好機!


独り、勝手に戦に参戦し、

敵将の首級を挙げる

信長はこれを評価せず…。


さらに一年後、

斎藤龍興との戦いでは

またも独り参戦し、

敵の豪将・足立六兵衛の首を討ち取りました。


この首を持って、信長は利家を許し、

織田家臣団への復帰を許しました。

24歳の時でした。

(この時、信長は利家が他の大名に仕官するかしないか見極め、
 信用が出来るか試したという解釈もあります)。



数々の戦働きで功績を残した利家は、

31歳の時に信長の鶴の一声、(家督を利家に譲れによって

前田家当主となります。


これにより、利久、そして順番からすると

その次の当主であった前田慶次との確執が生まれます。


それからも、戦で大活躍する利家は

数々の首を討ち取ります。


利家は加藤清正福島正則ら、武断派と呼ばれる猛将らからも

リスペクトされ、憧れられていたので、兵法や軍略の話を聞かない

長男、利長に対し、

「あれ程武略に通じた父上がおられるのに勿体ない」

と言ってたいそう羨ましがったといいます。



戦の手法は書物などからではなく、

主君、信長の戦い方を手本とし、

実戦で身につけていったといいます。



利家甲冑

 



■ 義理堅く、曲がったことは大嫌い!前田利家の格言



死の間際、妻のまつが

「あなたは戦で多くの人を殺めてきました。後生がおそろしいものです。

 どうぞ、この経帷子をお召になってください。」

※経帷子=死者もこれを身につけると生前の罪が消え、
 地獄の責め苦をまぬがれ浄土に往生できるとの信仰された。

と言ったのに対し、


「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、

 理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。

 だから地獄に落ちるはずが無い。

 もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、

 閻魔牛頭馬頭どもを相手に一戦してくれるわ!

 その経帷子はお前が後から被って来い。」

と言って着るのを拒んだといいます。


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   (地獄へ行ったら、こやつらと一戦やらかすという利家さん。)




阿波隼人という老侍が利家に拝謁したとき、


高齢+長袴のためつまずいて転んでしまいました。

それを見た家臣らは大笑い。


そこで利家は、

「静まれ!老人とはこうした過ちが多いものだ。

 それなのに助けもせず笑うとは何ごとか。許せぬ、笑っていた者は切腹いたせ!」

と死刑を言い渡しました。


家臣らは震え上がり、阿波も利家が自分をかばってくれたことに

感謝するも、切腹までは流石に。。という気持ちもあり、

利家に切腹命令を取り下げてもらうように嘆願したと伝わります。



利家といえば倹約家でソロバンが有名ですが

当時、ソロバン自体が珍しく、

それを扱えることから相当な教養の持ち主

であるとも考えられます。

2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、

後年には

「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、

 貧窮すると世間は恐ろしいものだ」


とつねづね口にしていたと伝えられてます。

おそらく、

この時の経験から、

武辺一辺倒だった利家も

浪人生活という時間を活かし、

学を身につけたのではないでしょうか?



北条家滅亡後に家来を養えず

困っている多くの大名に金を貸しており、

遺言においては


「こちらから借金の催促はしてやるな、

 返せない奴の借金はなかったことにしてやれ」


と利長に命じている事実が存在する。とあります。


漫画、花の慶次では可哀想なきゃらに設定されている

利家ですが、本当はすごくカッコよくて

情ににあつく義を重んじる、漢の中の漢だったのです!!

 

 

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